熱帯性感染症騒動記2:足取りと体調の変化

今回の体調不良になるまでの足取りと体調の変化について簡単に記しておく。

2月21日
04:40夜行便にてマレーシア・クアラルンプールに到着。17〜19日まで京都に居たので(それも往復夜行バス移動)マレーシアに着いた時には完全に疲れ果てていた。空港でしばらく時間をつぶし街に出て荷物を宿所に預け、眠くてだるい中、なんとか国立図書館に向かいマイクロフィルムと格闘したわけだけど、途中で凡ミスを連発する。何をやっているのか前後不覚の状態となる。眠すぎた。閉館と同時に宿所に戻り仮眠してから夕飯を食べにいった。この夜の呟きからも疲れがにじみ出ている。

2月22日
夜行での移動が続き大変に疲れていたので前日はたっぷり睡眠をとった。で、翌朝はすっかり疲労回復している。

この日は、昼の飛行機でシンガポールへ向かった。1時間足らずでシンガポール・チャンギ国際空港に到着。宿所のあるBoon Kengからバスに乗ってToa Payohへ行き豆乳休憩の後、MRTでOrchardに出て携帯SIMをM1 Outletで購入して、Orchard Rd.からバスに乗ってFarrer Parkまで戻りホステルに戻った。ホステルには、現地シンガポールの小中学生が集団で泊まっており、3つしかないシャワーは彼らに占拠されなかなか順番が順番が回ってこないので、明日の朝浴びればいいかと諦めた。23時には消灯されるホステルで22時には就寝した。

2月23日
朝、洗顔時に鏡を見ると首に赤い発疹を確認。しかし気にせずにホステル近くの珈琲ショップで魚丸麺を朝食に食べて、その後は終日国立図書館にてマイクロフィルムチェックに勤しむ。20時に図書館から出てオーチャードの高級チキンライスショップにて海南鶏飯を食す。その後バスに乗り宿所に戻る。

2月24日
朝、シャワーを浴びる際に初めて全身の発疹に気付く。ホステルには鏡がないのでバスルームに行かない限り鏡を見ることない。特に痒くはないがなんだろうと不思議に思いつつ、あまりにも両上腕・両腕の発疹が酷いので、それらを隠すために長袖を着用した。宿から徒歩でLittle Indiaに向かいマサラドーサを食べてから図書館へ。そのまま19時過ぎまで作業をする。20時に友人とCity Hallで待ち合わせて、Esplanade周辺でタイ料理を食べた。23時頃宿所に戻る。シンガポールに来てからは就寝するのも早く、日中は図書館で調べ物をしているというだけなのに疲れやすい。この日もこんなことを呟いている。

この頃、ホステル自体は新しくてきれいだが、同室の人がチェックアウトした後もシーツ・タオルケット等が交換されていないことに気付く。寝ていると痒いなと感じるようになる。思い込みって怖い。

2月25日
翌朝も発疹ひかず。ホステルをチェックアウトして午前中に街歩きをしてから14時台の飛行機でクアラルンプールに戻る。
この時は発疹と体のかゆみは、ダニにやられたものと思っていた。

この日はゆっくりと本屋さんめぐり。

2月26日
朝から国立図書館マイクロフィルム閲覧中、手がむくんで指が動かしにくい感じがするので腕時計を外して作業した。また、この日から腰が痛み始めたが、マレーシアの図書館の設備の問題だと思っていた。

この日は調査の最終日。目標とする分まで確認を終わらせるには、閉館時間である18時までにすべての作業を終わらせなければならないので、昼ごはんを食べる時間がなかった。図書館退出後、KLCCまで出ると目についたドリアンソフトクリームに飛びつく。美味しかった。が、その後ビールを飲んでしまい食べ合わせが悪かったかもしれない。この日の夜は友人と夕食を一緒にするはずだったが、体調がいよいよ悪いので断念。簡単にフードコートで鉄板伊麺で夕飯を済ませ宿所に戻る。荷物もまとめずに就寝。夜中にトイレに起きると全身が痛い。筋肉痛のようだった。

2月27日
朝起きれば体調が良くなっているかと思えば、腕と脚と手と、すべてが痛かった。が、この時もすべてが連関した症状とは考えておらず、どこかに腕をぶつけたか?とか疲労が取れないな、などと考えていた。飛行機ではビールとワインを飲み、映画を1本観てから就寝。寝ている間も関節と腰が痛んだ。

帰宅後の状態は、先日の日記に書いた通り。

そして次回衝撃の結論が!(つづく)

熱帯性感染症騒動記1:ネーミングの妙

マレーシア・シンガポールから帰国すると唐突にひどい関節痛に見舞われ、日常生活が送れない事態となった。全身の関節という関節が痛む。手(第一関節、第二関節、指の根本)、手首、肩、首、膝、腰、股関節が全て痛くて動けない、歩けない、物が持ち上げられない。一度座ると立ち上がれない。歩くにもヒーヒーと情けない声が漏れる。手が引きつって水仕事ができない。関節と皮膚が引きつれて手がグーパーしにくい。これはなんなんだ!と恐怖しながらも、とりあえずやり過ごそうと考えていた。

そんな状況のなか事務書類を作成していると、その件で友人から電話が掛ってきた。話の流れでこの体調不良について言及すると、それはデング熱なのではないか?と言われた。友人曰く都会こそデング熱発症地域なのだからその可能性も考え病院に行ったほうが良いという。東南アジア研究者である友人の言葉には説得力があった。とはいえ、シンガポールにKLだよ??まさかね?と思いつつウィキペディアデング熱を調べてみるとこうあった。

デング(dengue)の語源については諸説ありはっきりしない。悪霊によって引き起こされる病気を意味するスワヒリ語「Ka-dinga pepo」に由来するという説もある。また、スペイン語の「denguero」(英語のdandy)に由来し、その激しい関節痛を和らげるために歩く姿があたかも洒落者(ダンディ)が気取って歩く姿に似ていることからという説もある。

この「激しい関節痛を和らげるために歩く姿」がデング熱という病名の語源の由来の一つであるという箇所を読み、パーッと視界が開けたような気がした。こりゃ、私はデング熱なのかもしれない!

翌日、近所の病院に行ってみた。熱帯性感染症だけではなく、膠原病、リウマチなどの可能性も捨てきれないので、少し大きい総合病院に行くのが良いだろうとは思った。が、近所の総合病院のホームページには「みなさんにかかりつけの病院を持ってほしいので、当院では紹介制をとっております」と書いてある。つまりやみくもに病院に来るなという宣言である。仕方がないのでまずは二年前に健康診断に行ったことがある病院に行ってみることにした。身体を引きずるようにして、なんとか病院に到着。

後で怒られても嫌なので窓口では正直に東南アジア帰りで、現状からは熱帯性感染症を疑っていますと申告すると、蜘蛛の子を散らすように受付の方たちが消えて行った。しばらく待たされた上でうちでは見られないと言われた。どこへ行けばいいのか?と聞くと向こうも困ったようにしていたが、親切にも近所の総合病院の電話番号が書いてある紙切れをくれた。そのうちの一つにすぐに電話して今から行くので診てほしいと伝えたが、20分やり取りした上で結局断られた。近所の大学病院に行ってくださいとのこと。脱力。

仕方がないのでふーふー言いながら自宅に帰りネットで「熱帯性感染症 大学病院」で検索すると、東京医科大学渡航者医療センターという施設があることが判明。早速電話をかけて医療相談をすると、今の身体の状況からはデング熱・あるいはチクングニア熱が疑われると言われた。話していてこういう名前が出てくるあたりで「私は今専門家と話している!」という絶対的な安心感に包まれた。もう大丈夫だ、とホッとした。その後、チクングニア熱とは聞きなれない名前であると思いつつウィキペディアを確認してみると次のようにあった。

チクングニアとはマコンデ族の言葉(マコンデ語)で「前かがみになって歩く」という意味で、痛みに苦しむ患者の様子を表している。

ここでもまた納得。まさにこの状態。私の病気はこれです!というわけで、翌日病院に行き精査したところ、簡易キットにおいてチクングニア熱の陽性反応が出た。まだ確定ではないけれど、おそらくほぼ確定ということで一息ついたのが今。

伝統的な病名というものは、無知のひとに正しい情報のヒントを与えてくれる。デング熱の語源を知らないままであったら、熱帯性感染症を疑わなかったと思うので、どのような名前でその状態を指し示すかは非常に重要であると今回の顛末から痛感したのだった。(つづく)

移民すること

ドミトリーに戻ると、同室のベッドには一日中寝ている女性がいた。

一日目は会話らしい会話はなかったが(彼女が不機嫌そうだった)、二日目になると彼女の方から色々と話しかけてきた。台湾出身の彼女は、娘たちが住むアメリカに渡航するためのビザを取得するためにシンガポールに来たという。彼女は、シンガポールのPR(永住権)を取得しているそうで、台湾よりシンガポールで手続きしたほうが何かと有利だろうと考えてこちらに来たそうだ。が、傍目にも永住権を持つ者としての利点を最大限に利用してビザ取得に尽力しているようにはとても見えず、午前はエアコンの効いた部屋で遅くまで寝ているようで、午後になるとホステルの共有スペースにパソコンを持ってきてネットにつなぎ、オンラインでビザのアプリケーションフォームに情報を入力する程度の作業しかしていないようだった。

アメリカに住む二人の娘のうち、一人はすでに結婚しているそうで、もう一人も成人し独立しているそうだ。そんな娘たちとは、すでに7年以上会っていないという。「今回ビザが取れなくても、観光ビザで入国してその後現地でビザを変更すれば大丈夫だよね?」と彼女は私に確認した。
なぜ会ったばかりの私にそんな大事を相談するのか。そもそも私はアメリカの入管法に詳しいわけではないのだが、と思いながら困惑していると「ここで待っていてもアメリカ大使館の職員に直接会える可能性は低いし、ビザを申請してもなしのつぶて。台湾からシンガポールに来ただけでかなりのお金を使っているから、退却するというのはあり得ない選択肢だ。明日はアメリカ行きの航空券を買おうと思っている。とりあえず行ってみれば何とかなるとおもうんだけど、大丈夫だよね?」とまた確認された。良くは知らないけれど、311以降のアメリカはおそらくそんなに簡単に外国人を長期で受け入れないのだろうと思う。311以前であってもアメリカ滞在のためのビザ取得は大変だった。だから安易に当たって砕けろ式で渡航すれば、最悪の場合もう二度とアメリカには入国できないこともあるんじゃないだろうかと伝えた。不安そうにしながら、じゃあどうしたらいいのか。と彼女はつぶやいた。

話を聞けば逞しい人生を送ってきた女性である。
が、今回のアメリカ行きに関しては、彼女の強い意志によるものというよりは、台湾の家族(彼女のキョウダイ)にせっつかれて母国を押し出されてきたというのが本当のところであるようだった。

三日目の夜、彼女の離婚した夫がアフリカンアメリカンだったことを教えてくれた。シンガポールで結婚生活を送っていたが、離婚後は夫はアメリカに返ることになった。彼女は手に職がなく、シンガポールでの暮らしは気に入っていたけれど子どもたちを育てていくことができないので彼女一人台湾に帰ることになったという。年を取り、夫も子どもも身近にいない彼女をどうするかという話し合いが親族内でされたのかもしれない。彼女の兄と姉は、子どもたちがいるアメリカに行くのが一番自然なことだと彼女を諭したそうだ。シンガポールよりもアメリカに行く方が、他の親族もアメリカに移住しやすいだろうし、メリットが大きいというのも彼女をアメリカに行かせる大きな動機の一つらしい。とにかく彼女は親族の「お荷物になる」という不名誉な状況を打開し、彼女の親族の未来を拓く成功者になる必要があるようだった。

最終日の夜、彼女は無理に渡航するのはあきらめると言っていた。翌週までシンガポールに滞在してアメリカ大使館で面接を受けてビザが取れなければ、今回は台湾に戻るとも言っていた。彼女は、色んなプレッシャーで冷静な判断ができなくなっていたのかもしれない。毎夜私に遅くまでいろんな愚痴を言う中で冷静にもなり、ガス抜きもされたのかもしれない。(その分私は寝不足になり疲れたのだけれども)

逞しい移民の物語ばかりに耳を傾けがちだけれども、こうやってやむにやまれず状況に押し出されるように移住する人も少なからずいるという当たり前のことを考えさせられた数日間だった。

Ever changing Singapore

昼過ぎにKL(LCCT)からシンガポールチャンギT1)に着いた。

シンガポールは、マレーシアの喧騒がまるで夢であったかのように全てが整然としていた。空港からMRTに乗ろうとコンコースフロアに向かうと、まずはエスカレーターのスピードの速さに驚いた。フィールドのおばさんの中にはエスカレーターにタイミングよく乗れず何段か見送ってからエスカレーターのステップに乗る人もいるけれど、このスピードではシンガポールエスカレーターで怪我するマレーシア人もいるのではないかと漠然と思った。

前回シンガポールを訪れたのは2006年頃。その時に買ったIC交通カードを使おうと思えば、それはすでに期限切れのため使えないという。お金をトップアップすることもできないそうで、もう一度新しいものを買いなおす羽目になった。後生大事に保存していてバカみたいだ。仕方なく古いお札でカード代金を支払おうとすると、古いお札はもう使えないとのことで受け取りを拒否された。何でもかんでも移り変わりのスピードが速いシンガポール、さすがである。ここまで徹底していると笑えてきた。

シンガポールの交通カードEZ Linkの期限は5年。南京の交通カード<金陵カード>の使用期限は99年なのだが、99年とは言わずとも、せめて20年ぐらいの期限を設定してほしい。キアスなシンガポーリアンにとって、「5年」というのは99年ぐらいの悠久の時間として捉えられるのかもしれない。

とはいえ、宿泊したエリア、Boon Keng駅近くのSerangoon Roadには、マレーシアとさほど変わらぬ珈琲ショップがあって安心した。

大地震

東北関東大震災から1週間が経った。忘れないように記録しておく。

3月11日(金)
プロジェクトの予算消化のため研究書籍を注文するために大学に出勤する。14時に事務局に集合ということだったので、自宅で欲しい書籍を調べてから出発した。この日から暖かくなると聞いたので薄手のスプリングコートを着た。iPhoneは100%充電したので、eneloopは自宅に置いていくことにした。この判断は完全なミスであったことに後ほど気付くことに。

大学最寄駅に着いたのは14:15頃。改札近くの地元物産品販売店でメロンパンを購入し14:20発の右回りのバスに乗る。事務局に着いたのはおそらく14:35過ぎ頃。
部屋に入りコートを脱ぐと入口付近の外套掛にコートをかけた。すでに他の人たちは作業をしていた。私は会議テーブルに座り、トートバッグからサーモマグを出しコーヒーを飲みながらメロンパンを食べながら雑談していたところで、初めの揺れを感じる。

初めはいつものようにすぐ終わる地震だと思っていたので、会話をしながらメロンパンを相変わらず食べていた。北海道出身の友人がしきりに怖がっていたけれど、いつもの揺れだよなんて言いながらヘラヘラ笑っていたら、揺れが収まるどころかどんどん激しくなっていく。揺れる本棚、ブラインド、崩れ落ちる書類。初めこそ本棚を手で押さえていたけれど、これ以上は無理という段になって出口を確保しなければ!と我に返り部屋を脱出することになった。部屋を出るとき、なんとなく部屋をもう一度振り返りテーブルの上に置いたままにしていたiPhoneだけはかろうじてつかんだ。(今思えば携帯を忘れて出てこなくて良かった。)そうしている間に空間を隔てるスチール棚がこちら側に倒れ、PCモニタなどが倒れて机から落下し、部屋の本棚は全て倒れて室内はメチャメチャな状況になっていた。部屋の窓は開いたままで、窓の外に見えるモミの木が不気味に左右に揺れいた光景が目に焼き付いている。

非常階段を駆け下りる。冷たい鉄の手すりにしっかりつかまっているのに遠心力のようなものが働いて外側にふり払われる。前を行く友人がよろけ、後ろから来るはずの友人は事務局のドアの前で倒れていた。怖い、とこのとき初めて思った。このままこの建物の中から逃げられないのかもしれないと一瞬思った。その割には食べかけのメロンパンを左手に持ち、最後の一口は非常階段を下りながら食べる始末。人間パニック状態になっていると何をするかよくわからない。
(つづく)